私は認知症だった?

入居者の先輩が長年通っているリハビリの評判を聞いて私も頓に弱ってきた足を何とか

してもらおうとタクシーを呼んでいそいそと出掛けました。此処は足場が悪いので

病院から送迎バスを出してくれていますが、利用する前に車への昇降の能力テストが

あります。路線バスの高いステップを物ともせず利用している私は自信満々でテストに

臨んだはずですが昇降口で、いきなり <動くものに掴まってはいけません。掴まれるの

は固定されているものだけ> 入口のポールを握りしめて車内に上がると目に付くのは

並んだ椅子ばかり。椅子の背凭れはリクライニングに動くしシートは前後に移動する

この車内で動かないものはと,きょろきょろしている内に敢え無くタイムアウト

結局判断力が低下して危険だからとの理由で送迎バスの利用は没。














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憧れの駄菓子

5歳から小学校5年まで暮らしていた東京の下町はそこら中に駄菓子屋がありました。子供達はおやつの時間になると親に貰った何枚かの1銭銅貨を握り絞めて駄菓子屋に走り、当てもんを引いたり、駄菓子を物色して楽しんでいました。娘時代に行儀見習に長いこと蜂須賀侯爵家に仕えていた母はとても行儀にうるさく戸外の立ち食いすら御法度。買い食いなんて夢のまた夢。仲の良い友達が時折分けてくれる のし烏賊やニッキ棒がどんなにおいしかったか。父が横浜から買って帰る口に入れたら味わう間も無く胃に滑り落ちるようなシュークリームよりどれだけ美味しかったか。今95歳の私は愛の里で気楽な独り暮らしをしています。喧し屋の母も既に亡く1銭銅貨にも不自由のない境遇なので好きなだけ駄菓子を買い漁っています。

初めてのお勉強

ロビーの自販機の水に H2O と書いてあるのを見つけ学生時代に分子記号を覚えるのに苦労したな。と思い出に耽っていると唐突に記憶の底から浮かび上がった住所がありました。
東京市蒲田区御園町335 かれこれ90年前に住んでいた町です。前任地は岩国市の田園地帯で村人は総べて顔見知り。まず迷子の心配はありません。何しろチンドン屋の後ろでも、葬列の後ろでも付いてゆく好奇心の塊のような娘。花のお江戸で迷子になったら、と心配した母が
住所、氏名の暗記の猛特訓。5歳になったばかりの私は叩かれたり、お菓子に釣られたりしながら必死で覚えました。お陰で90年経っても覚えているのに昨日の事を何故忘れる??

体幹の反乱

95歳を過ぎても脳味噌は余り衰えていないつもりで色々指令を出しますが受ける、部下の体幹がもう駄目と反乱を起こしたらしく、「前に進め!!}と言っても足を上げようともしない。。外出から帰ってドアの鍵穴を覗き込むとそのまま前につんのめってドアーに頭ごつん。こればかりは如何にネット様でもお手上げらしく未だに解決法が見付かりません。
90近くまで四駆マニアルのステーションワゴンに寝袋とラジュースを積んで野の花を求めて日本中を走り回っていた身としては何とも情けない老後。決して運命論者ではありませんが私の一生はゾロ目に付き纏われているようです。そもそも生まれたのが和暦も西暦も下二桁が11、母と死別したのも父と死別したのも3人ともゾロ目年齢。何時とは無しに88歳が私の天命と思い込んでいたのに、なってみると一日に300キロの長距離をすっ飛ばしていました。
まさか???99歳?? 助けて!!!!! もうくたびれたよ〜〜〜〜〜〜〜

若しかして私はスーパーエイジャー

愛の里のお世話になって足掛け4年、死ぬことすら忘れる程の多忙な日々を過ごし間もなく
く95歳を迎えます。三食昼寝付のつもりで決めた当所、他の多くの人の様に食事以外部屋でごろごろしていても何の支障もありませんが、人一倍好奇心<野次馬根性>の強い私。ドライブと言えば一番に申し込み、音楽会、買出しの送迎勿論、所内の議事集会、里山の収穫物の仕分けの助っ人、ご近所さんから珍しい野菜を頂くと栄養価が気になって早速ネット様にお伺い。鼻水が出ても、朝から山風が吹いてもネット様。かくて一日中森羅万象の究明に追い回される結果に。お陰で可なりの物知りにはなりましたが,今更上級校の受験でもあるまいに。これからは出来るだけ好奇心を抑えてのんびりと長生きを心がけましょう。これ以上????  

奇遇

薬が切れたので久し振りで病院を訪れた時の話です。割合混んでいるので大分時間が掛かりそうだとフト隣を見ると80過ぎに見えるお婆さんの膝に置いたバッグからボールペンの頭が覘いている。メモ道具を持ち歩く位の人なら話し相手として不足ないだろうと<暑いですねぇ。やはりお彼岸が来ないと駄目なんですかねー>から始まって体調の話から相手は私より1歳年下の93歳と言うことが判明。色々話す内お互いに朝鮮からの引き上げで何と女学校も同じ京城で相手は第一高女私は第二高女それからは懐かしい戦前のソウルの思い出に花が咲いて時のたつのを忘れました。その内お互いの順番がきたので名残を惜しみつつ再会を約して別れましたが何たる奇遇。

恐怖のDNA

私の名付け親である大伯父は親族きってのインテリで一族一の横紙破り。未だに一族の語り草になっている逸話があります。頃は明治の終わりか大正の初めの頃、酒に酔った大伯父が所も有ろうに御堂筋で立ちションをやらかし忽ち巡査に捕まった。オイ、コラ、の詰問に、かちんと、きた大伯父は「わしは長年時と所をかまわず、いぼり(尿)の出る病を患うとる。今もそれが起きたけん着物が濡れるのでめくっただけじゃ}こんな詭弁が通る筈もなく黒山の人だかりが出来るほど争った挙句警察に引っ張って行かれた。其の晩意気揚々と帰って来て言うことには「巡査の奴終いには、頼むヶ始末書書いてくれ と言いやがった」始末書を書いたか書かなかったかは伝わっていませんが、私の体内を駆け巡っている血液の中に残っているであろうこの反骨のDNAの何分の一かが或る日突然目覚めてホーム一のトラブルメーカーになるのを恐れながら不安な日々を送っています。