名前の由来

XX豊野 姓だけでも20画もある下の名前がこれ。小学校低学年の頃この字画の多い姓名に
どんなに親を恨んだことでしょう。私も小山ハルさんだの田中正子さんの様に簡単な名前なら
もっとゆっくっり検算もでき若しかしたら100点が貰えたかも知れないのにと、テストの度
に名前を書く時間を惜しんだものです。でも齢を重ねた今は由緒ありげで雅号とも思える名前も段々身に着いてきた様で気に入ってます。時々病院などで姓と名を取り違えて豊野さんと呼ばれ<はて?この先生はフアースとネームで呼ばれる程親しい先生だったかな?>と悩むことがあります。この子供泣かせの名付親は私の大伯父で親族きってのインテリ。遥か遠い明治の頃九州の片田舎から笈を負うて東京に遊学。蔵前高等工業学校の第一回生に。子供の無かった大伯父は可愛い甥っ子の頼みに張り切って、代々豊前小倉の藩士だったので一字頂いて豊。
母方の徳島は女の子には の を付ける風習らしく母の姉妹も ヤエノ、ツヤノ、トノエ、
私は上の字に負けないように漢字の野。名は体を現す。理詰めで名前を付けたお陰で諺通り理屈っぽい扱いにくい婆になりました。

恐怖のDNA

私の名付け親である大伯父は親族きってのインテリで一族一の横紙破り。未だに一族の語り草になっている逸話があります。頃は明治の終わりか大正の初めの頃、酒に酔った大伯父が所も有ろうに御堂筋で立ちションをやらかし忽ち巡査に捕まった。オイ、コラ、の詰問に、かちんと、きた大伯父は「わしは長年時と所をかまわず、いぼり(尿)の出る病を患うとる。今もそれが起きたけん着物が濡れるのでめくっただけじゃ}こんな詭弁が通る筈もなく黒山の人だかりが出来るほど争った挙句警察に引っ張って行かれた。其の晩意気揚々と帰って来て言うことには「巡査の奴終いには、頼むヶ始末書書いてくれ と言いやがった」始末書を書いたか書かなかったかは伝わっていませんが、私の体内を駆け巡っている血液の中に残っているであろうこの反骨のDNAの何分の一かが或る日突然目覚めてホーム一のトラブルメーカーになるのを恐れながら不安な日々を送っています。