北鮮を追われて      其の三

車が自由に使える時代ではなし、汽車は止まったまま、国からの指示は皆無。

38度線が封鎖された事など知る由も無い我々は、其の内に帰国命令が出て引き揚げ列車

も動くようになるだろうと未だに頼りにならない政府を信じ切っていました。

程なく大挙して押し寄せたのが草臥れた軍服とボロ靴で最新の自動小銃をたづさえた

シベリアからのソ連軍でした。  これが地獄の幕開きです。

若い女性は絶対外に出ないようにとの隣組からの注意もあり、それからの半月余り玄関を

一歩も出ず、風呂にも入らず、髪も梳かさず、汚く見せる事に一生懸命でした。

それでも悲しい噂は時々伝わってきました。 ソ連兵に陵辱された若い人妻が2日間泣き

とおした挙句自殺したとか、連れ去られようとした娘を庇った父親が射殺されたとか。

そんな或る日会社に出入りしていた町工場の主人が訪れ、私を物陰に呼んで

≪娘に泣きつかれてとうとう渡してしまった。滅多なことは無いと思うけどお守りだと

思って持っていますか≫ と、仁丹の小さなガラス瓶に入った白い粉を呉れました。

それがメツキに使う青酸カリだと知ったのはずっと後の話です。それ以来寝ても覚めても

床下に掘った蛸壺に隠れていた時も肌身離さず身に付けていました。

母はソ連軍の使役に引っ張り出され、じゃがいもの皮むきをさせられていましたが、

或る日帰宅しての話に≪ソ連兵も悪い人ばかりじゃないよ、今日皮むきをしていたら若い

兵隊が傍に来て身振り手振で年を聞くのでサバを読んで60と言うとニエといって笑って

手を振ると何処かから木の箱を持ってきてこれに腰掛けて剥けだって、しゃがんだまま

じゃ疲れるだろうと思ったのか優しいよね≫ でも私のイメージとしては毛むくじゃらで

刺青をした両腕に略奪品の腕時計をびっしりはめた姿しかありませんでした。







に.