{北鮮を追われて}其の十一

    
此処まで来ればもう安心。返って裏道をこそこそ歩いて不審者と思われて発砲でもされた

らと大通りに出たものの時々道端で遊んでいる子供達に≪イルボンサラミ イルボンサラ

ミ≫と囃し立てられながら、顔を隠すように足元ばかりを見詰めて歩いている鼻先にいき

なり銃身が‥‥思わず膝を突きそうになりながら見上げると髭の剃り跡も青々と清潔な軍

服に、頑丈な靴、大声で怒鳴っているのはどうやら英語。 敵性語として僅かしか習わな

かった乏しい記憶を掘り起こし Iam Japanese from north with famili を繰り返し叫

び続けると、行けと言うように顎をしゃくったので一団となって転がるように38度線?                                        を突破しました。気の緩みからか其の後のことは記憶が定かではありませんが、そこから

は引き揚げ援護局の方々のお世話で窓も無い真っ暗な貨車に詰め込まれ長い思春期を過ご

した懐かしい ソウル に、たどり着きました。

             忘れえぬ事ども

38度線を突破して無事故郷に帰るまでには自分史以外にも64年たった今も脳裏に焼き

ついている数々の思い出があります。一つは山口県の仙崎に入港後引き揚げ援護局に引き

揚げ証明を貰いに行った時の事です。事務手続きをしている傍らに坊主刈りにした綺麗な

娘さんが放心状態で座っていました。北からの避難民で男装をしている娘さんは見慣れて

いますが余りに雰囲気が異様なので聞いた所「北からの避難民に混じって引き揚げ船には

乗ってきたものの余程怖い目に遇ったのか自分の名前も何処から来て何処へ行くのかも判

らない状態なので、此処にこうして座らせておけば誰か顔見知りの人でも通りかかるかも

知れないと思ってこうして毎日坐らしている」との事でした。無事に親族の許に帰れたら

もう米寿を迎える年の筈。自分が命永らえ元気に米寿を迎えるにつけてもあの娘さんの事

が折に触れ思い出されます。

いま一つは釜山で引き揚げ船の順番を待って何日か野宿をしていた折の事。僅かな手回り

品を詰めたリュックを周りに積んで冷たい海風を防ぎ震えながらふと見ると前方の線路脇

に葦簾に巻いた荷物が可也の嵩で積んであります。あの蔭なら風も当たらないだろうと話

し合っていると大分前から待っていた人が「あれは死体だよ、もう使われていない引込み

線だというので一家族があそこで寝ていたらいきなりアメリカの列車が入ってきて一家

全滅さ。折角ここまで辿り着いて気の毒な事だ、何時まで放って置くのやら」と全身から

血の引くような話。

家族全員が亡くなったあの人達は誰が弔って上げるのでしょうか。仮令無縁仏になったと

しても家族一緒に土に還れたらまだ幸せですが、まさか異国の海に水葬されたのでは、と

未だに気掛かりです。