127865958*[北鮮を追われて}あとがき

              
この手記を書き初めて間もなくふと思い出したのは超記録魔であった父があの命を賭けた脱出時、暗くなるまで隠れていた墓の陰や山の中の民家の暗い灯りのもとで、せっせと鉛筆を走らせていた姿です。 若しかしたらと家中を探し回ったら有りました!!!
32年前に亡くなった父の布張りの小さな手帳が。表に 終戦時朝鮮脱出記 とシールが貼られていますがその手帳は1957年発行のもの。怪しみながらページを繰ると冒頭に昭和20年8月15日を平安南道江西郡岐陽(平壌府より鎮南浦に至る鉄道の略中央に位置する場所)に建設工事半ばの 朝日軽金属岐陽工場の総主任として、70人余りの職員と5000人に及ぶ労務者を使って鋭意施行中終戦を迎えた。 
京城を経由本土に引き揚げる迄数回身の危険に遭いながら重要事項記入の小さな
手帳に鉛筆で日記を記入して居った。ごく僅かな身の回り品と共に持ち帰ること
が出来た。何度も読み返して居る内に鉛筆の文字が薄れて見にくくなったので
将来悪夢の思い出にと原文のまま書き写したものである
    (  )  内の注釈は書替えの時記入したものである
とあり、如何にも技術者らしく几帳面な、今の私では拡大鏡のご厄介にならないと読めないような細かな字がびっしり並んでいます。 それによると私の記憶から飛んだ部分、父の思い違いと、色々重ならない箇所もあり、一般の方には理解出来ない仕事関係の記述もありますので抜粋して男の目がみた苦難の歴史を折が有ったら又書きたいと思っています