讃婆の由来

会員の高齢化の為女学校の同期会が消滅してから幾星霜。そろそろ人生の終着駅の見え始めた3年前せめて年に1〜2回動ける者だけでも集まろうと言う事になり、言い出しべえの私が檄を飛ばして期待の第一回に集まったのはたった3人。それも小学校も女学校も同じ仲間。回を重ねる毎に、後何回出てこられるか分からないからもっと頻繁に逢おうと、どんどんエスカレートして今や偶数月にあちこちの温泉を泊まり歩いています。と言っても休暇村と国民宿舎専門ですが。家族と同居なら若いのが心配してとても出して呉れないでしょうけど3人とも独り暮らし。現地集合ですが昨年秋の指宿でも名古屋からも関西からもちゃんと一人で出て来ました。
体力的に無理だからと観光は殆どパス。美味しい物も90歳の胃袋がノーと言うので,専ら温泉に温まってはお喋り。4日も5日も良くそんなに話の種がある?と不思議でしょう?それがあるんですよ。学校時代の思い出は殆ど共有、北鮮脱出の思い出、引き上げてからの苦労,今時の若い者の批判、政治家の悪口、再軍備の賛否、原発の功罪,ちょっぴり健康の愚痴、口角泡ならぬ入れ歯を鳴らしての大論争。ああ楽しかったで帰宅すれば次回の目新しい話題を求めて図書館通い。こんな楽しいボケ防止があるでしょうか。次回は新緑を求めて信州の鹿教湯温泉に行きます。前説が長くなりましたが発足時3人だったので 三婆 と名付けたのですが噂を聞きつけた飛び入りがあり四婆になったり五婆になったりとややこしいので、初心を忘れぬ為三を讃に改めた次第。