思い付くまま

「ほら、又来たよ」未だ日の高い内に夕食を済ませロビーのソファーで寛いで

いたお仲間が一斉に視線を向けた先に小太りの若者がにこにこしながら頭を

下げて居ました。ここの入居者のお孫さんで、長年家族と賑やかに暮していた

のに急に1人になっては心細いだろうし足が不自由では食堂に降りるのも大

変だろうからと勤めが終わるとホームに足を運び、楽しく語らいながら一緒に

食事をして、時間の許す限り色々と世話をしているようです。

幼い頃どんなにお婆ちゃん子だったとしても成人してしまえば疎遠になるのが

世の常。お仲間の殆どに可愛がっている孫がいます。

でも此処まで尽くす孫は入居者の羨望の的です。

異邦人

最近5−6年もご無沙汰だった友人達から頻繁に見舞い状が届くようになりました。と言うのも現在私の暮しているのは熊本県から大分県に続く大活断層に程近い別府市だからでしょう。
先月の第一波の折には流石の熟睡魔の私も飛び起きましたが、風の吹く頻度並みにこう再々揺れていると又表で車が急ブレーキを掛けたな位にしか感じなくなりました。
おまけに99%が直下型。ゆっくり持ち上がって、どすん。でお終い。夜中なら頭も擡げませんでも先日夕食中に可也大きなどすんの有った時は平均年齢80ウン歳の婆さま方が声を揃えてキャー。18娘並みの黄色い声に顔を見合わせてテレ笑い。きゃーで済む内は良いけど最上階のお風呂に入っている時に大きいのが来たらどうしょうと心配になった時にふと昔友達と交わした会話を思い出しました。
かれこれ20年近く前になりますが、我が家を親元同然に出入りしていた日系三世の娘がいました。
当時30半ばで日本の大学でチェロを教えて居ました。何処かで大地震のあった直後の会話で
[若し入浴中に大地震があってタオル一枚持っただけで逃げ出したとしたら日本人なら何処を隠す?}{常識的に考えても前か、胸だろう」{どうして?体なんて誰も同じ。それが私の体だと判らなければ平気だから、私達なら先ず顔を隠すよ}
何たる文化の違い。改めて彼女が異邦人だった事を認識した次第。

新しき門出

先日開催された入居者食事懇談会の折の余談に「皆さんに少しでも季節を味わって頂こうと土筆を取ってきたのですが、はかま除りが大変で厨房だけでは手が足りず私も家に持ち帰って夜なべに家族を動員してる」とのことに、思わず「暇を持て余している入居者も大勢居る事だしボランティアを募集したら?」と言うと施設長も大喜びで、夕食後談話室に集まった10人余りの有志の前に運び込まれたのは一抱えもある大笊に山と積まれた土筆が二杯。一瞬、余りの量に息を呑んだものの、1人が手を伸ばすと我も吾もお喋りをしながらせっせと、はかまを取り始めました。所が野草に余り詳しくない人が採つたらしく、頭がすっかり開いてしまったものや、痩せて軸がストローのような物まで混じっていました。土筆の美味しさは未だ頭が固い緑色の時期のほろ苦さが身上。でも昔の味を少しでも思い出すよすがにでもと、せっせと摘んでくれた人達の厚意を思えば一本たりとも仇には出来ず剥き難いのを苦労しながら仕上げました。人海戦術が功を奏して1時間余りで土筆の山は、はかまだけを残して消え去りました。散会の折私の一番好きな土筆料理の きんぴら の話をした所後日美味しいきんぴらになって食膳に上ったので大感激。味を占めたので今度 山独活の花の蕾の天ぷらをリクエストしょうと今から舌なめずりをしています。人は生きる為に食う。私は食う為に生きる???

新しき門出

1学年に二度も転校する様な典型的な転勤族の娘に生まれた私は<引越しの荷物になるから>と言う理由で生涯お雛様を持つ事が出来ませんでした。
そんな娘が哀れと思った父が小学校3年の時ボーナスをはたいて、少し名のある画家の 立ち雛 の掛け軸を買ってくれました。
「この掛け軸一本で立派な七段飾りのお雛様が買えるぐらい高かったんだぞ」と言われても私は内裏様だけでも良いから人形雛の方が欲しかった。年を経ること80年。結婚もしなかったので孫娘に贈るすべもなく、生涯お雛様とは無縁のままでした所が、愛の里で暮し始めると、桃の節句が近づくとロビーは勿論各階のエレベーター前の休憩所まで様々なお雛様で埋め尽くされました。
ホームで用意したのも、入居者の持ち込んだのもあるのでしょうが此処を終の棲家と決めたからは全部我が家のお雛様。通る度に飽かず眺めています。予告が有って楽しみに待っていた雛祭り当日の夕食はご覧の通り。箸を付けるのがためらわれる程の豪華版。流石に口の中でぴちぴち跳ね回る白魚だけは遠慮しましたが。皆さんは大喜びでした。




讃婆

此処を終の棲家と決めてから早いもので二度目のお正月が93歳の私の上を静かに流れて行きまし
た。初めて迎えた新年は、此処の暮らしに馴染むのが精一杯でお餅つきと、初詣で位しか記憶に
残っていませんが、気の合う話し相手も何人か出来、顔も覚えて貰える様になった今年は新年会
で御屠蘇の乾杯の後じっくりテーブルのおせち料理を観察した結果が下の写真。
聊か料理に自信のある私ですが、完全に最敬礼です。勿論、プロとアマの違いがあるにしても、
これが老人ホームの料理かと目を疑う凝りよう。目で楽しんで、味で喜び、余韻で満足。料理の
真髄とはこの事でしょうか。かくて大名暮らしの三が日は終わりを告げました





新しき門出

部屋に引き取って1人で過ごすには長い時間を持て余す夕食後何となく

ロビーに集まった婆4人。平均年齢80ウン歳。大した話題がある訳でも

無く、若かりし頃体験した戦争中の話しに落ち着きました。

先の戦争で死んだ人達の中にはノーベル賞が貰える人やゴッホ以上の

人も居ただろうに遺骨さえ靖国神社にも戻れないなんてさぞ残念な事

だろうと思っていると、中の1人が「でも、軍人で社に祭られている人

が有るよ、ほら、海軍さんで、小学校の時唱歌で習ったじゃない。

あの神社は何と言ったかな?」それから皆で古い記憶を探り探り大合唱。

最後の♪♪旅順港外恨みぞ深き♪♪ で4人同時に 軍神広瀬 と叫んだ。

先の大戦どころか、遥か昔の日露戦争の頃のお話。でもやっと広瀬神社

を見付けてお開きに。こんなクイズもどきの他愛の無い話でも私達に

とっては貴重な歴史の1頁なのです。